「礼!」
「ありがとうございました!」

ゲームセット。
全京大会三回戦敗退。
小学校最後の夏が終わった。

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「こんな模擬試験の成績やったら、立命館なんか受からへんで。」
父にそう言われたのは六年生に上がる前の春休みだった。
「受かるわ。」
「もっと頑張らな無理やろなぁ。」

目の前には先日の模擬試験の結果と進学塾のコース別の日程表が置いてあった。
五年生の時は月、水、金曜日に塾へ行っていた。
プリントには毎日コースという忌まわしい名前の日程が印刷されている。
月火水木金土日、本当に毎日なのだ。
誰がこんなあほみたいに勉強するんや?といつも思っていたのに・・・
小学校六年生になろうかという僕は、このあほみたいなコースに行けと言われているのだ。

「だいたいなんで上中(かみちゅう *上京中学)やったらあかんの?みんな上中やんか。」
「私学に行っといた方がええんや。」

この会話になるといつも理由は「行っといた方がええ」なのである。
小学生を完全に子どもだと思っているのか、理由をはっきり言ってくれないのだ。
だいたい父も母も公立高校なのになんで僕だけ私学へ行かなければいけないのか全く理解できない。

「受からんでもええんやったら好きにしたらええ。」
この父の人を馬鹿にした言い方がどうにも許せなかった。
「行ったらええんやろ!行ったるわ!」

ついに言ってしまった。
カッーとなったら向かっていってしまう僕の性格を知ってかどうか、完全に誘導されてしまった。

後日、野球の試合だけは行かせてほしいと頼んだが、夏の大会だけという条件付きであった。

僕は四番でピッチャーだった。
しかし、そうであることになんの特別感も覚えていなかった。
当たり前のように打って投げるだけなのだ。打てば勝つし良いピッチングをすれば勝てたというそれだけであり、それ以上の感情は特に無かった。

僕は宣言通り毎日塾に通った。
毎日毎日通った。
少々の熱が出ても意地になって通った。
模擬試験の成績は上がっていった。

・・・・・・・・・・

昭和五十二年当時、少年野球は夏の大会が六年生にとって最後の大会であった。
さすがに大会前の練習には参加してほしいと監督から電話があり数か月ぶりに練習に参加した。

「あれ、体動かへん。」
この日初めて自分の体が思うように動かないことに気が付いた。
身体が重い、バットが振れない、投げる球が遅い・・・
自分の体ではなくなっていた。
そんなこと今まで感じたことなどなかったのにどうしたんだろう。
急に不安な気持ちが襲ってくる。
普通に打って、普通に投げて、それで誰よりも上手いのが当たり前だったし、僕はそれを特別なこととして捉えてもいなかった。

一回戦。
僕は五番レフト。
久しぶりの試合だし、ちょっと変な感じだけど五番レフトでも仕方ないと思っていた。

外野から野球を見たのは初めてだった。
自分ひとりポツンと置き去りになったような気がした。
内野がよそのチームのように見えた。
みんなの声も聞こえない。

試合には勝った。
一度も打球は飛んでこなかった。
一本もヒットを打てなかった。

二回戦。
五番レフト。
一回戦では活躍してないし、仕方ないと思う。

ランナー三塁でレフトフライが飛んできた。
ランナーはタッチアップの構えに入っている。
捕球と同時に思いっきりホームへ投げた。
アウトだった。
ベンチへ帰るとみんなに「ナイスプレー!」と言われたが、何も感じなかった。

そして勝った。
打てなかった。

三回戦。
五番レフト。
打てないから仕方ないと思うようにした。

僕に代わってマウンドに立っている岸本君が打たれた。
しかし、ピッチャーの交代は無い。
僕はもうピッチャーではないんだとうっすらと感じた。

最後の打席だったか、フルカウントから真ん中高めのボール気味の球をカットしようとハーフスイングをした。
力の無いキャッチャーフライが上がった。

そして負けた。

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「残念やったなぁ」
僕が試合から帰ると母がそう言ったような気がした。

僕は二階の自分の部屋に入り寝転がった。
寝転がって天井を見た。
なにか鼻の奥がつーんと痛くなり急に目頭が熱くなった。
涙が溢れだした。
とめどなく涙が溢れだした。
「うっうっ」と嗚咽がこぼれる。

「なんでピッチャーと違うんや」
「なんで打てへんかったんや」
「なんで体動かへんのや」
「なんでなんや」

涙は次から次から溢れだす。
今まで味わったことの無い感情が溢れだす。
負けたのが悔しいわけではなかった。
投げさせてもらえなかったのだ。
打てなかったのだ。
僕は悔しいという感情がこんなにも悲しい感情なのかと思い知りながら泣き続けた。

どれくらい時間がたったのだろう。ふと見ると窓の外は夕方の色に染まっていた。

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幾度となく夏になると私はこの日の感情を思い出した。
しかし、その感情は少しずつ私の中で違う感情に変化していく。

年を重ねるとともに悔しさは徐々に薄れ、それに代わり「あの時周りのみんなはどう思っていたんだろう」と考えることが多くなった。
なんで試合に出られたんだろう。
監督はなんで私を試合に出したんだろう。
チームメイトはなんで「ナイスプレー」と私に声を掛けてくれたんだろう。

その答えはまだ一度も聞いていない。

私が三十歳の時、少年野球チームの二十周年パーティーの案内が届いた。
仕事で出席できなかったが、まだ監督を続けておられた岡田監督に花束を贈った。
数日後、几帳面なお礼の手紙とともに記念品が送られてきた。

私が四十歳の時、三十周年パーティーの案内が届いた。
私が自分の少年野球チームを作った年であった。
やはり仕事で出席できず、岡田監督に花束を贈った。
やはり几帳面なお礼の手紙とともに記念品が送られてきた。

私が五十歳になる少し前に、私を育ててくれた少年野球チームは他の少年野球チームと統合されたと聞いた。
四十周年の案内は届かなかった。

今、私が岡田監督に聞きたいことはもう無いかもしれない。
ただ、岡田監督に御礼を言わなければならないことがひとつある。

「あの時、僕を使ってもらってありがとうございました。練習していない僕を使ってもらってありがとうございました。自分のことしか考えていない僕を使ってもらってありがとうございました。あの時のいろんな感情や岡田監督の勇気や葛藤が、今でも大きな部品となって僕の心の中に埋まっています。」

と。